2019年3月13日水曜日

エドワードバッチ博士について


もともと正統医学(西洋医学)の医師であったバッチ博士がどのように人の心を癒すフラワーレメディのシステムの開発に至ったのかバッチ博士のヒストリーです。


バッチ博士

エドワードバッチ博士(1886-1936)は、時代に先がけた考えを持った医者でした。
短い生涯で、博士は正統的な医学(西洋医学)から
自然な形の医学を発展させ、感情面とスピリチュアルな面の健康に
対応するという、現代のトレンドである、ナチュラルヘルスに
非常に当てはまる考え方をしていました。




イギリスのバーミンガム郊外に生まれ、ウエールズの血を引く博士は
直感力に優れ、自然を愛し、繊細だが独立心が旺盛な子供でした。


16歳で学校を卒業して3年間は、医学の道に進む用意をする為に
バーミンガム郊外にある、父親の真鍮工場で過ごしました。


バッチ博士のキャリアは、正統医学の経歴をもち、医師として大変な成功をおさめました。
1912年にロンドンのユニーバーシティ・カレッジ・ホスピタルで医師の資格を得て、1913年に救急外来担当医になりました。

同年ナショナル・テンペレンス・ホスピタルの緊急外来の外科医になりました。
一時健康を損ないましたが、病気が回復してからは、

ロンドンで開業し多忙な生活を送りました。



若い頃からバッチ博士は人々の性格や心のあり方が健康状態に
影響を与えている事に気づいていました。

医学生としても、博士は患者の症状よりも患者個人に関心を向けており、
早い時期から、病気においては人格、つまりどういう人で有るかが病気の
症状より重要で、医学的な治療にもその点が考慮されるべきだと考えました。



博士は、正統的な医学(西洋医学)の限界と症状のみに焦点を当てた治療法にますます失望して行きました。



効果的な治療法は、病気の原因を対象にする必要が有ると考えた博士は、
免疫学への関心を追求する事に決め、1915年にユニバーサル・カレッジ・ホスピタルの次席最近学者になりました。



博士の身体はもともと強健ではなく、第一次世界大戦の徴兵検査には
合格しませんでしたが、1917年に健康状態が悪くなり、
一時は死を宣告されました。

自分の研究を完成させたいと言う博士の強い決心が、病気からの回復に導きました。

その経験から、後にレメディを開発する時にも、本人の内なる真実の声に従うこと、スピリチュアルにも身体的にも健康でいるためには不可欠であるとの信念に強く博士が影響を受けたことがみてとれます。


1912年から1922年迄、博士はロンドンでのホメオパシック・ホスピタルで病理学者と細菌学者として勤務しました。

そこで博士は、ホメオパシーの祖であるサミュエル・ハーネマンが、150年も前に病気においては患者の性格が重要である事に既に気づいていたことを知って驚きました。



博士は正統医学の知識とホメオパシーの原則を組み合えあわせて、
セブン、バッチ、ノソードを開発しました。

このノソードとは腸内細菌から作った経口ワクチンで、腸管内を浄化し
患者の健康状態全般と、関節炎のような治りにくい慢性症に著しい
効果を上げました。


博士はまだロンドンに診療所を持ち、ノッティンガム・プレイスで無料で
貧しい人たちを診療しました。

忙しい日々にも、博士はよりシンプルでピュアな治療法を探し続けました。


医師達は医師のワクチンを使う様になりました。(このワクチンは現在でも利用している、医師やホメオパスもいます)博士は細菌由来の薬剤で有る事を好まず、できれば植物由来のより穏やかな方法に切り替えたいと願っていました。

1912年の有る夕食会で、バッチ博士にはある考えがひらめきました。集まった人を眺めていて、そのゲスト達にはいくつかのタイプに

分けられるという事に気が付いたのです。

この事から、タイプや性格によってそれぞれ有る特定な病気に
対する反応の仕方をするという結論に達しました。

その年の秋にウェールズを訪れ、ミムラスとインパチェンスの2種類の植物を持ち帰りました。


博士はこれらの植物を使って経口ワクチンを作ったの同じ方法で調剤し、患者の性格に従って処方した所、すぐに良い結果を得る事が出来ました。


その年の後半に、クレマチスを加えました。これら3種類のレメディは、博士が全く新しい医学大系を開発する事になる
発端でした。

1930年に春にバッチ博士は43歳で自分の研究所や診療所を閉じ、自然の中にレメディを求めて、ウェールズを訪れました。


早朝、霜のおりた野原を歩いていた博士は、朝露は太陽の光で熱せられて植物の癒しの成分を取り込んでいるのだと、博士は思いつきまいた。

この事からインスピレーションを得て、博士は清らかな水を使ってレメディを作る方法を開発しました。

その年に、博士は病気とはスピリチュアルな目的から逸れていった結果である

というメッセージを込めた「汝自身を癒せ」という短い著作を書き上げました。同書は1931年に出版され、それ以降今日まで版を重ねています。

1930年の8月から1934年まで、バッチ博士はノーフォーク海岸沿いのクローマーに居を構え、フラワーレメディをさらに発見していき、

それらのレメディを使った患者の治療は成功を収めていきました。

1934年に、博士はマウントバーノンと呼ばれるオックスフォ−ドシャーの小さな家に移り住み、この建物は今ではDr エドワード・バッチセンターになっています。


博士はソットウェルとロンドンで患者の診察と執筆活動を行い、さらにレメディを発見して行きました。当時、バッチ博士は、有る症状を緩和する植物を発見する前には、自らがその症状に襲われ、精神的にも肉体的にも苦痛を体験したと言います。



博士は研究と講演を続け、研究を進める為に助手達の訓練も行ないました。38種類のレメディとレスキューレメディを開発した時点で、それ以上のレメディは人間のあらゆる側面をカバーし、従って病気の元となるネガティブな精神状態すべてに対応します。




1936年の11月末に、博士は使命を果たして満ち足りた想いで、眠りの中で息を引き取りました。


博士は、自分の研究を伝え続ける全責任を、自分が訓練した友人や、同僚の手に委ねました。

博士は自分の家が博士の業績の源として存在する事を希望しました。
このような訳でマウントバーノンのバッチセンターでは、現在もアドバイスを与え、教育を展開し、母液を作り続けています。この体系の伝統の純粋性と完全性が保たれる事を今日まで守り続けています。









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